文法学習について

文法の学習は国語という教科にとってどれほど役に立つものなのでしょうか?

実は、私自身が学生のときには、国文法なんて意味がないと思っていました。外国語や文語(古文)のためならいざ知らず、口語の国文法の学習それ自体に国語力を伸ばすための意義はない、という認識だったのです。

しかし、子どもたちの読み書きに携わるうちに、文法学習にある程度の力を入れる必要があるとだんだん感じるようになっていきました。文法に関する知識がなければ、国語という教科のほとんどが、場当たり的な思考やセンスでしか対応できないと気付いたのです。ただでさえ、「本を読んでいれば自然とできるようになる」とか「生まれ持ったセンスがものをいう」などと言われている国語です。そんなふわふわとした実体のないもののように扱われているこの教科に、多少なりとも形を与え、学生たちに具体的な切り口を示してくれるのが文法学習だと、現在私は考えています。

たとえば、「ら抜き言葉」

一つの分かりやすい例として、正しい書き言葉を習得させるという観点から文法の果たす役割を考えてみましょう。たとえば、なぜ「見れる」は書き言葉としては問題があり、「帰れる」は問題ないのでしょうか。いわゆる「ら抜き言葉」の問題ですね。「ら抜き言葉」になってしまうケースというのは無数にあり、かつ「見れる」「寝れる」「着れる」「出れる」など、日常的に頻繁に使う表現に潜んでいますから、かなり厄介です。しかも、「帰れる」や「さわれる」のような、「ら抜き言葉」に似ているけれどもそうではないという、罠みたいなもの(?)まであるのです。

もちろん、その都度「これは『ら抜き言葉』だよ、これはそうではないよ」と指摘して、逐一覚えてもらうというのも一つの手でしょうが、いま言ったように無数に起こる可能性のあるものですから、それだけでは大変心もとないですね。また、「日頃からたくさん本を読んで、正しい書き言葉にたくさん触れていればこんな言葉の間違いはしないようになる」という考え方もあるかもしれません。しかし、これも全く場当たり的な発想で、客観的な指標を少しも与えてくれません。それに、こうした読書量で解決しようとする考え方は、読書をどうしても苦だと感じる人たちからモチベーションを奪ってしまうように思えます。

「ら抜き言葉」の問題には「動詞の活用の種類と活用形」「助動詞の〈れる〉と〈られる〉およびその接続」「可能動詞」といった文法上の知識が絡んでいます。本当に頻繁に起こる言葉の誤りですが、文法的に分析すると結構入り組んだ問題なのですね。しかし、それは逆に、こうした文法知識をしっかり習得してさえいれば、何が「ら抜き言葉」で何がそうでないのか、その基準を持つことができるということです。「ら抜き言葉」についての理論の獲得と言っても良いでしょう。これらの知識は中学生のレベルで習うものです。小学生ではケースバイケースで対応するとしても仕方ないですが、中学生になってこれらの文法知識をものにすれば、自分の文章から「ら抜き言葉」を追い払うことができるのです。それこそ、活用の種類さえ分かれば、どんな動詞の場合でも。

また、たとえば、体言と用言

また、「体言」と「用言」という概念は多方面に渡って役に立つ概念ですので、この教室では重要視しています。

一例として、種の独自制作の文法プリントの一つ「体言と用言」の一部をご覧ください。簡単に言うと、「ハンバーグと、カレーと、ラーメンを食べました」というように、事がらを並立させる文の書き方に関係する話です。「体言型表現」「用言型表現」という二つの表現方法を学習した後にやってもらいます。

さらに、こうした作文の方面だけではなく、読解問題を解く場合にも、体言と用言の区別を念頭に置いておくことが役に立ちます。特に書き抜き系や記述系の問題では、答えを見つけたり作ったりするための手がかりになり、見当はずれな答案を防ぐことになるでしょう。それについてここで具体的に話すことはしませんが、とにかくこの体言と用言という二つの対概念は習得価値が高いので、種の生徒にはしっかり理解してもらえるよう力を入れています。

生きる知識としての文法

文法の勉強と言うと、非常にややこしくて回りくどい上に、「文法問題のためだけの文法学習」としか思えないような、他のことにはまったく役に立たない閉じた学びであるように思えるかもしれません。事実、そう思っていたのが過去の私です。でも、そうなってしまうのは運用の仕方の問題でしょう。価値を生かすも殺すも扱い方次第。文法学習とは、本当は書くことと読むことに資する学びなのです。種では、文法学習をそういうものとして提供しています。

2018年09月24日 | Posted in コラム | | No Comments » 

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