コラム:「国語は他の教科の基礎」なのか?
国語は他の全ての教科の基礎―
そういうことを言う教育関係者が山ほどいる。また、教育関係者に限らずとも、多くの保護者がそういう認識を持っていると思う。もちろん私も、取りも直さずそう思っているうちの一人であり、このことを否定するつもりは全く無い。けれども、それだけが正しい事実なのだろうか。
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国語が他の全ての教科の基礎などというと、国語と他の教科が主従の関係になっているようなイメージを持ってしまわないだろうか。国語の学びが他のあらゆる教科の母体となっており、それに従属するかたちで他の教科の学びがある、そんなふうに思えてしまう。
もちろん、あらゆる学びは言語を通じて行われる。実験や実技もあるけれども、そこで得られたものを理論化したり体系的に整理したりするためには言語が用いられる。また、算数・数学は数や式、図形が対象になる学びなので、一見言語学習からは距離があるもののように思われるが、数式というものはひとつの命題にほかならないわけだし、言語の一変種と言ってもよい。図形だって、その理解の根底にはとりもなおさず言語があるのであって、算数・数学の学びが言葉と無縁だということには決してならない。算数・数学の文章問題や証明問題のために言葉の読解力や表現力が必要だということは多くの人が分かっていることだけれど、それよりもさらに根本的なところにおいて、算数・数学の理解に言語が関わっている。
他の教科が国語の基礎にもなっている
だから、言語教育、つまり国語が他の教科の学びの基礎になるという話は確かだ。しかしながら、そのことが強くフォーカスされることが多いせいか、その逆の側面もあることはあまり取りざたされないように思われる。その逆の側面とはつまり、他の教科の学びが国語の基礎になる側面もあるということである。「国語は大事だ」という大きなかけ声にうやむやにされて、その事実を多くの人が見落としているように思える。
たとえば、国語の読解問題の説明文で「光合成」「被子植物・裸子植物」「気体・液体・固体」「化合物」「酸化・還元」「生殖細胞」「質量」「万有引力」といった理科系の科目で学ぶ科学用語が登場することは大いにある。こういった概念を理科・化学・生物・物理等の授業で習っていれば多少なりともなじみのある言葉として受け止めることもできるだろうが、そうでなければこんな抽象的な漢語を前にして戸惑ってしまうにちがいない。
また、社会科の関わる文章を読まされることもしばしばある。都道府県名やその地理的位置を知っていることはもちろんのこと、その地の産業や気候的特色の知識が関わる場合もある。あるいは、歴史が話題になる文章だってある。近畿地方の中学入試で出題しない中学校が多くあるせいで、社会科をきちんと勉強していない小学6年生が結構いる。以前、「徳川家康」という言葉が文章に出てきたときに、それが何のことか分からないという子がいた。
理科や社会で習得する知識や概念が国語の授業で読まされる文章の読解の成否を左右し得るのだ。理科や社会ばかりでない。中学・高校レベルの論説文や評論文では「…は…の関数である」といった表現を見ることがある。これはつまり「関数」という数学上の概念を比喩として用いたものであるが、数学の授業を通してこの概念を正しく理解していなければ、この比喩を正しく捉えることもできないだろう。
また、数学の思考で求められる純粋な論理の厳密さと、日常的な言語コミュニケーションにおける曖昧さをはらむ論理を比較している文章が読解問題になることがある。数学をよく学び、その純粋論理の世界に対してある程度しっかりした認識を持っていなければ、こうした文章に書かれていることを十分に理解することはできないだろう。英語についても似たようなことがあって、日本語と外国語(特に英語をはじめとした欧米の言語)を比較して日本語文化を再考する趣旨の評論文もよく見かける。英語の構造や表現の特徴をある程度理解していなければ、こうした文章のなかで述べられていることを十全には理解できないはずだ。
国語は教養の基礎であり、教養の集合体でもある
このように、国語以外の教科で学ぶことが国語の読解問題をこなすための助けになったり、あるいはそもそもの理解の前提になったりもしている。純粋に国語の中だけで習う事がらによって成り立っている問題は、漢字語句の知識問題や、文法問題しかない。国語の問題の主な部分を成すところの読解問題は、たしかに文章を読んで答えるという形式だけを見れば「国語らしい」のだが、実は国語の授業の管轄外にある教養や常識の多くがそこにひそんで、無視することのできない構成要素となっている。その意味で、国語の読解問題は純粋に言語学習の成果のみを試す場ではない。
確かに、言葉の精通があらゆる学問的理解の前提や推進力になるという意味で、国語学習は様々な教養を得るための基礎である。けれども、その一方で、国語という教科自体が様々な教養の集合体になっているという側面もあるわけだ。だから、国語のもとに他の全ての教科が従属するなどということは絶対にない。国語も他の教科もすべて対等に並んでいて、おたがいがおたがいを補い合って全体としての教養を形作る、そんな関係になっているのだ。