コラム:「適応」と「適用」

子どもや学生ばかりでなく、大人の書いた文章でも混同をよく見かける言葉の例として「適応」と「適用」がある。
確かに「テキオー」に「テキヨー」と、両者の音はかなり似ている。話し言葉の中でなら、多分聞き手側が勝手に脳内補正してくれて、話者が意識して使い分けなくてもなんとか通じてしまうのではないか。
しかし、意味のへだたりは大きい。「適応」は、なじむこと、うまくやれるようになること。「留学生たちは母国と異なる文化にまだ適応しきれていないようだ」などと使われる。また生物学の文脈では、環境に応じて生存しやすいように生物の形質が変化していくことも表す。他方の「適用」は、あてはめること、用いること。「すでに学んだことを適用すれば解答できる問題だ」などと使われる。
体感にすぎないけれど「適用」を使うべき文脈で「適応」が使われるケースの方が、その逆よりも多いように思う。いまの例文をそのまま使えば、「すでに学んだことを適応すれば…」とする誤りが多く、「留学生たちは母国と異なる文化にまだ適用し…」というような誤りはあまり見ないように思う。
「この問題を解くためには、すでに学んだことを適応する」と聞くと、語義としてはぎりぎりストライクゾーンに入っているような気もする。すでに述べた通り「適応する」は環境や状況になじむという意味ではあるが、たとえば「すでに学んだこと」という防護スーツを着て、「問題」という過酷な環境の惑星を探索するというイメージを持ったらどうだろう。問題を解いていく行為が、惑星の環境に適応して探索が進んでいく過程と重なるように思えるではないか。
自動詞と他動詞の観点から
ただ、たとえそう思えたとしても、「すでに学んだことを適応する」はやはり表現として無理がある。ここには意味の問題以上に、文法的な問題があるのだ。というのも、「適応する」は自動詞である。「すでに学んだことを…」の後に自動詞を置くことはできない。この後にくる言葉は他動詞でなければならないのだ。
「自動詞/他動詞」というのは、動詞を分類する視点のひとつだ。主語自身の動きや変化を表す動詞が自動詞、主語から他のものへおよぶ動作や作用を表すものが他動詞と呼ばれる。たとえば「焼ける」は自動詞で、それに対応する他動詞が「焼く」だ。「魚が焼ける。」というふうに、自動詞は主語とその動詞だけでも文が最低限成り立つのに対し、他動詞の場合は主語とその動詞のほかに「…を」という部分を置かないと不十分な感じがする。「私は魚を焼く。」の「魚を」をぬかして「私は焼く。」としか言わなかったら、何を焼くのかという大事な情報がすっぽり欠けている感じがするだろう。もちろん、「釣った魚は、ぼくは刺身で食べるよ。」―「私は焼くよ。」という会話のように、「何を」に当たる事柄が文脈上明らかな状況でなら問題ない。けれど、何の前提もないところでいきなりただ「私は焼く。」とだけ発言されたとしたら、聞き手はその発言の意図を十分にくみ取れないはずだ。
反対に、自動詞は「…を」の部分を必要としないどころか、置いてしまうと文が壊れてしまう場合も多くある。試しに「焼ける」の前に何でもよいので「…を」というかたちの部分を置けるか考えてみてほしい。無理にでも入れるならば、「魚を焼ける」「肌を焼ける」「雑草を焼ける」…。明らかに文法的におかしいと感じられる表現ができる。
「適応する」も同じだ。これは自動詞であり、主語自体のことを表現するものだ。「留学生が適応する」(「何に」という部分は欲しい感じがするけれど、今はそれは問題ではない)とは言えても「留学生を適応する」「異文化を適応する」などとは言えない。「…を」の後に「適応する」は置かれないのだ。だから「すでに学んだことを適応する」は文法的に許されない表現である。
自動詞による受け身文
ちなみに、「…が適用される」とするべきところで「…が適応される」としてしまうという誤りの例もよく見る。つまり、受け身のかたちでの誤用だ。受け身の文は基本的に他動詞を使って作るものである。受け身の文は、もともと「…が」だった部分を「…に」に置き換えたり、「…を」だった部分を「…が」に置き換えたりすることによって成り立つ。つまり、「AがBを…する。」という文を「AにBが…される。」にするのだ。たとえば「料理長が魚を焼く。」は「料理長に魚が焼かれる。」という受け身文になる。
「…を」の部分を「…が」に替えると受け身になるということは、ここではそもそも「…を」の部分の存在が前提とされているのだ。逆に言えば、もともと「…を」の部分をもたない文からは受け身の表現を作れないのである。そして自動詞の多くは「…を」の部分を持たないのだった。だから、自動詞を用いた受け身の文を作るのは困難なのだ。「魚が焼ける。」という文の受け身の文を考えろと言われても困ってしまうだろう。
あえて言うなら、かなり強引ではあるけれど「魚に焼けられる。」という文が考えられなくもない。だが、これは話し手が迷惑をこうむる事態を表現するという意味合いが出る。焼けては困るのに焼けてしまうという場合の言い方なのだ。このような表現ならば自動詞の受け身文はあり得るが、そうした主観的な感情の叙述を含まない、純粋に事態を表現するだけの受け身文を作るのは自動詞には不可能だ。
つまり、「あいつに適応されたくない。」などといった形ならば、「適応する」を受け身にした文は一応可能である。ただ、そのとき主語になるのは誰だろう。これは話し手の迷惑感情を表明するかたちの文なのだから、「適応される」の主語にあたるのは話し手をおいてほかにない。「(おれは)あいつに適応されたくない。」なのだ。そういうことからも、「新しいルールが適応される。」などという「適応される」の使い方は、やはり文法的エラーになると言える。




