コラム:敬体と常体をめぐる文体の考察 その1

以前はこのウェブサイトで国語科に関するコラムをよく書いていましたが、しばらくそれを止めて(サボって?)しまい、オリジナル教材の公開や種文学賞の作品発表、また各種お知らせくらいしか載せなくなってしまっていました。

ただ、この教室も始めて8年目になり、考えることもだいぶ溜まってきました。先日書籍も出版して、そこでいろいろと書いたこともあるのですが、書ききれなかったことも多くあります。

そこで、少し発奮して、国語の勉強や言葉・文章について考察するコラムを再開してみようと思います。このサイトを訪れてくださった方に、少しでも役立つ話をお届けできればさいわいです。

私は常体で書きたい

というわけで、コラムを再開するにあたって、まずはそもそもなぜコラムを止めてしまっていたかといいう話をしたいと思っています。それについては、書く時間が無かったとか、ネタが無かったとか、私がめんどうくさがりだとか、いろいろな要因があるのですが、そのうちの一つに「文体の問題」があったのではないかと私は考えています。

ここでいう文体の問題とは、「敬体か常体か」ということがらです。敬体とは、いわゆる「ですます調」。要するに丁寧語での述べ方です。一方、常体は「である調」とも呼ばれるもの。俗にいう「ため口」で文章をつづっていくのがこちらだと考えてよいでしょう。

現にいま、本文でもそうなのですが、私は敬体でこのウェブサイト上のほとんどの文章を書いてきました。どうもこれがもどかしい、というのが、コラム執筆を疎くさせていた原因として大きいのではないかと思われるのです。

つまり、私は常体で書きたいのです。

と言って、誤解しないでいただきたいのですが、私の傲慢から敬体で書くのが嫌だと思っているわけではありません。これは、敬体と常体という二つの文体のあり方や、ビジネス用文書と、私見を述べるエッセイとの違いといったことが関係する問題なのではないかと私は考えています。

そうだとすれば、これは私の個人的な心情にとどまる話ではなく、文章を執筆すること一般に関わる話。それならば、本コラムで語るに堪える話題なのではないかと思うのです。

そんなわけで、ここからは、この敬体と常体をめぐる問題について語らせていただきます。しかも、遠慮なく常体で書かせていただきます。日頃から学習会の生徒たちには「ひとつの文章の中で常体と敬体を混ぜてはならない」と口すっぱく伝えているのですが、私自らその禁を犯します。以下、突然文体が変わって、違和感を持たれるかもしれませんが、悪しからずお読みいただければさいわいです。

敬語の話

まず、敬体と常体という二つの文体がどういうものであるか改めて考えてみたい。敬体は丁寧語で文章をつづる書き方だと先ほども述べたが、丁寧語とは敬語の一種である。敬語とは、特定の誰かに対する敬意の表明を含む言葉づかいだ。敬語には尊敬語・謙譲語・丁寧語の三種類がある。国語の授業で敬語が教えられるとき、一般的にはあまり明確に意識されることはないのだが、この三種の敬語は三者がそれぞれ対等並立の関係にあるわけではない。前の二つは対をなすものであるのだが、丁寧語はそれらとは少し性質を異にするのだ。

その違いをもたらすのは、「誰への敬意を表するのか」という一点である。まず尊敬語は、その「単語が表すものの主」への敬意を表する。たとえば、「種太郎さんがここにいらっしゃる。」であれば、「いらっしゃる」という動作の「主」である「種太郎さん」への敬意を表している言葉づかいだということになる。また、「種太郎さんのおかばんをお持ちする。」の「おかばん」も尊敬語だと言える。その「持ち主」である「種太郎さん」への敬意を表している言い方だ。

それに対して、謙譲語は、その「単語にとっての相手」に対する敬意を表す言葉づかいである。「種太郎さんに話をうかがう。」の「うかがう」は、「種太郎さん」を相手にしている動作であり、彼への敬意を表しているのである。このとき、単語の「主」は話し手(あるいはその身内)になる。「主」の側が下位になる表現を使うことによって、結果的にその相手が高まる、そういう言葉づかいが謙譲語だ。なお、「私の著した本」ということを意味する「拙著」や、「うちの会社」を意味する「弊社」という言葉づかいなども謙譲語の一種で、「拙」「弊」という字で「主」側を下位にさせておき、これらの単語が相手にする者への敬意が表れるようにしているのだ。

丁寧語は、文の受け手への敬意

このように、尊敬語と謙譲語のどちらも、そのそれぞれの単語自体が関わる人物への敬意を表している。そして、そのことが丁寧語をこの二つの語法から画する要因になっている。丁寧語は誰に対する敬意を表する言葉づかいかと言うと、「その文を受け取る者」である(「単語を受け取る者」ではなく、「文を受け取る者」になっていることに注意されたい)。会話であればその話を聞いている相手であり、文章であれば読者である。

たとえば、丼原さんという人物が声村君という人物に「私が種太郎さんのおかばんをお持ちします。」と言ったならば、「…ます」という丁寧語は声村君に対する敬意を表している。そうなると、丼原さんと声村君の関係性は、声村君の方が丼原さんより立場の上の人だとか、あるいは丁寧語で話す程度に距離感のある人同士だということになるだろう。

「私が種太郎さんのおかばんをお持ちする。」と丼原さんが言う場合と比べてみるとよい。ここでは丁寧語が使われていない。そうだとすると、これは声村君という受け取り手に敬意を表する必要が無い場面での発話だということになる。つまりは、丼原さんと声村君はそういう間柄、いわゆる「ため口」で話せる人同士だということになる。

このとき、「私が種太郎さんのおかばんをお持ちする。」と「私が種太郎さんのおかばんをお持ちします。」のどちらでも、種太郎さんへの敬意は変わらずに表されている。話し相手である声村君への敬意の有無がどうなろうと、「おかばん」という尊敬語と「お持ちする(お持ちします)」という謙譲語が関わる種太郎さんという人物への敬意は保たれるのだ。

あるいは、「私が種太郎さんのかばんを持ちます。」という丁寧語のみが使われている文を考えてみよう。「かばん」を尊敬表現にしていないし、「持つ」という謙譲表現ではない一般的な動詞を使っていることから、丼原さんは種太郎さんに敬意を表していないことになる。丼原さんが敬意を表しているのは、この文を聞いている声村君だけなのである。

だから、もしこの「私が種太郎さんのかばんを持ちます。」が声村君ではなく種太郎さんを相手にして言われた文であるならば、つまりこの文の聞き手が種太郎さんだということになるならば、丼原さんは不十分な敬語を使っていることになるのだ。丁寧語を使うことで、話し相手である種太郎さんへの敬意は一応表しているのだが、尊敬語や謙譲語を使っていないことによって自分と種太郎さんを対等にさせてしまっている。片手落ちの敬語使用なのである。(ただ、これはあくまで敬語という語法の理論上の話。もし種太郎さんがこのくらいの敬語の不備で「無礼だぞ」と丼原さんを怒るようならば、ちょっと心がせまいなあと私は思う。)

敬語の位相

このように、尊敬語&謙譲語の二つと、丁寧語とでは、敬意の方向性の性質が異なる。ひとくちに「敬語」とまとめられる三つの語法だけれども、敬意がその単語に関わる人物に向かうのか、それとも文の受け手に向かうのかという点で二つの位相に分かれるのだ。このことは敬語を使う上で常に念頭に置いておきたい。

また、日常生活の中で敬語を使うときだけではなく、国語科の勉強の中でも、敬語におけるこの二つの位相を見極めることが特に大切になる場面がある。それは古文における敬語関係の出題だ。たとえば、

かたはらに若き僧の侍りけるが知り、「さに侍り」と申しければ…

(俊頼髄脳)

という一節、「若き僧の侍りける」の「侍り」、「さに侍り」の「侍り」、「申しければ」の「申し」という三つ敬語が出てくるが、こういうふうに複雑に敬語が使われているときに、それぞれが誰に敬意を向けた言葉であるかを見分けさせる出題が想定されるのだ。実際、これは2023年の大学入学共通テストに出された文章の一節であり、同試験では「さに侍り」の「侍り」が誰への敬意を表しているかを見誤っていないか試される設問があった。

敬意を表したくないわけではないけれど…

話が横道にそれてしまったが、丁寧語というのは、要するに、語りかける相手への敬意を表するための言葉づかいである。敬体という文体はつまり丁寧語によってつづられた文体であるから、敬体で書くということは読者に敬意を表する形で文章を書くということになる。

そうであれば、敬体でコラムを書くことに抵抗があるということは、やはり読者に敬意を持つことに抵抗があるということではないか、偉そうに講釈を垂れたい気持ちがあるから敬体で書きたくないんじゃないか、そんなふうに思われても無理もないのだが、決してそういうわけではない。私が敬体でこのコラムを書くことに違和感を持つ要因は、このことからは若干ずれているのだ。

では、何が敬体に対する抵抗感を抱かせるのだろうか。そのことについて考えを述べていきたいのだが、すでにここまでだいぶ文字数をかけてしまった。それにもかかわらず、ここから先に私が語りたいことはまだ結構ある。このままでは相当な文字数になって、ご覧になっている方の目を疲れさせてしまいかねない。ここで一旦区切りたいと思う。

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