コラム:敬体と常体をめぐる文体の考察 その2
前回の記事「その1」では、私がこのウェブサイトのコラム執筆を滞らせていた要因として、敬体を使用することに違和感があったという話をした。そして、敬語というものがどのような語法体系であるのかを振り返り、丁寧語を用いる文体である敬体は、読者に対する敬意を表する書き方であるということを確認した。
しかしながら、私が敬体でコラムを書くことに抵抗感を覚えるのは、読者へ敬意を表したくないという気持ちからではない。では、なぜ私はコラムを敬体で書くことに抵抗感をもつのだろうか。
そこには、「敬意を表するということは、その敬意が向かう相手の存在を前提とする」ということが関係している。以下、そのことについて話をしていきたい。
言葉の二つの役割
言わずもがなの事実なのだけれど、言葉というものは、思考・思想の固定化という役割と、その他者への伝達という二つの役割をもつ。私達人間は、あるときには自分の考えたことをはっきりさせたり、整理させたり、あるいは保存しておくために文章として書き残すということをする。あるいは、書き残すまでいかなくとも、ひとりごととして発してみたり、もしくは表に出さずとも、ぼんやりと胸に抱いていたものを脳内で言語化することで、その「ぼんやり」をしっかりつかめるものにしようとしたりする。こうした言葉の用い方が思考・思想の固定化だ。そして、そんな思考・思想を他者に伝達し共有することで私達は社会を成りたたせている。その伝達の手立てになるのもまた言葉である。
敬語の三種のうち、尊敬語と謙譲語については、他者への伝達においてはもちろんのこと、思考・思想の固定化の段階でも用いられるということが言える。たとえば丼原さんが、誰かに伝えるでもなく、ただひとりごととして「先生はああおっしゃっていたけれど、私は同意できないな。」とか「早く部長にあの件をお伝えしなければ」というふうに、「おっしゃる」「お伝えする」といった尊敬語や謙譲語を用いて発話することはあり得る。
丁寧語は伝達のためだけのもの
それに対して、丁寧語はそちらの方面で用いられることは考えにくく、もっぱら他者への伝達の役割でしか使われないのではないか。「先生はああおっしゃっていたけれど、私は同意できません。」といった敬体の発話を丼原さんがするならば、それは誰か特定の相手に向けられた言葉であり、伝達を意図した発話になるはずだ。丼原さん自身以外の誰に語られることが一切意図されていない、純粋なひとりごとであると考えるのは難しいだろう。
とはいえ、小説や漫画やアニメなどの文芸作品では「ふふふ、そうきましたか。おもしろい、受けて立とうじゃありませんか!」というように、心の声としてのセリフが敬体になっていることがある(確認してはいないけれど、「ドラゴンボール」のフリーザのセリフなどにはこういうタイプの発話がありそうではないか)。けれども、こうしたセリフは、それがたとえ心の中の声だとしても、やはり相手に向かっていく言葉としてそのキャラクターの頭の中を去来していると読みとるべきなのではないだろうか。相手と物理的に距離が離れているだとか、何らかの事情があって声にこそ出さず頭のなかで念じているだけになっているけれども、本当は相手に届けるべき言葉としてある。だから敬体になっているのだ。もしも、相手に届けることがまったく想定されていない、つまりただただ自分自身に言い聞かせることだけが意図されている言葉ならば「ふふふ、そうきたか。おもしろい、受けて立とうじゃないか!」になるべきだろう。
敬体は、伝達される相手を必然的に想定する
話が変なところまで広がり過ぎてしまったけれど、要するに、敬体による発話とは、以上のように伝達を前提とした語り口なのだ。そして、もし伝達を前提とするならば、その伝達を受けるべきところの相手が必ず前提とされているということだ。もし相手がいないで発話されるならば、それはただのひとりごとであり、つまり思考・思想の固定化のために発せられた言葉なのである。
相手のいない伝達など存在しない、このことを逆に言うならば、伝達を意図するならば、相手の存在を想定しているということだ。そして、敬体とは他者への伝達を意図した語り口である。ということは、敬体を用いて文章をつづるということは、必然的に、その伝達の相手たる読者の存在を想定しているということになる。ここに私の問題点がある。
つまり、私が敬体で文章を書くならば、私は自分の文章の読み手の存在を想定していることになる。このことに対していくばくかの違和感があるのだ。もちろん、これは私の文章の読者がゼロであることを欲しているということではない。読んでくださる方がいるのならばそれは素直に嬉しい。ただ、私は誰かに頼まれてここでのコラムを書いているのではないのである。誰かが私に国語の参考になることを書いてほしいとリクエストをくださり、それに応える形でこうした文章を書いているのではない。
おこがましいから敬体を使いたくない
つまり、私は純粋に自発的に書いているだけなのである。しかも、書いている内容も、私が関心をもった事がらを掘り下げているだけで、国語の勉強にとって実質的に役に立つことなのかどうか私自身はよく分からない。本コラムは敬語を話題にしているから、たとえば敬語の使い方を調べようと思った方が、「敬語」というワードで検索するなどしてこのページにたどり着くということがあり得る。しかし、その方がこんな内容で満足するのだろうか。もしかしたらその方は「私は一体何を読まされているんだ?」と思うかもしれない。と言うか、そもそもそういう方を満足させることを目的にして私がこれを書いているかというと、全然そんなつもりが無いという事実もある。
そうだとすれば、初めから、それを読んでくれる誰かがいることを想定するのはおこがましいのではないか。敬体を用いて、さも誰かに語りかけるように文章を書くのは厚かましいのではないか。私はそんなふうに思ってしまうのだ。これが、私がコラムを敬体で書くことに抵抗感を持った原因である。
というわけで、私はここまで常体で書かせていただいたし、これからもコラムを常体で書くつもりだ。一方で、学習会の事業についてのお知らせとなると敬体に戻ることになる。それらは届けるべき相手の存在を想定して発信していくものだからだ。