コラム:敬体と常体をめぐる文体の考察 その3

なぜ私が敬体ではなく常体でコラムを書きたかったのか、その理由は前回の記事で語ったとおり、私が純粋に自発的に書いている文章であるのに、読者の存在を初めから想定した敬体という文体を用いるのはおこがましく感じるからというものだった。私の語ることに耳を傾けてくださる方がいるとしたら、それ自体はまったくやぶさかではない。しかしながら、初めからそういう方がいることを前提として文章を書くのはちがうと思うのだ。たとえ読者の存在が見込めないとしても、私は文章を書くだろう。そういう文章であるならば、そこで敬体を使うのは何かおかしいと思うのだ。

常体は思考の自立を表明する

「読者の存在を見込めないとしても書く」、それが重要な点だと思う。これは、見方を変えれば、私の書こうとすることが読者の存在/不在に依存しないということである。つまり、ここで語られることは、読者がいるかどうかという問題から自立している。

常体で書くことを選ぶということは、自分の文章にそんな自立性を持たせるということになるのではないだろうか。もしかしたら、その自立性からくる毅然とした感じが、人によっては傲慢そうに見えたり、冷淡に見えたりするのかもしれない。逆に、敬体で書かれてある文章の方が優しく、親しみやすい印象を受けると感じる人が多いのではないか。それは、こちらが読者に敬意を表する文体だということ以前に、読者の存在をきちんと認めている文体であるために、読者としては筆者に寄り添われている感じがするからなのだと考えられる。

そんなことも影響しているのか分からないが、この教室でのことも含め、往々にして小学校低学年の児童には敬体で作文を書かせることが多い。いや、「書かせる」といったそんな意図的なことではない(少なくとも、この教室では)。絵本や児童書など、これくらいの児童たちの目に触れる多くの文章が敬体で書かれていて、そのために自然と彼ら彼女らが書く文章も敬体になると言った方が正確だ。別に常体で書いてもらって全く問題無いはずだが、多くの子どもが敬体で書くことに慣れている。

しかし、学年が上がるにつれて、常体で書くことに慣れていくべきだし、実際にこの教室ではそのような声掛けをしていく。どうしてかと言うと、大学受験で必要になる(かもしれない)小論文や、大学在学中(あるいは中学・高校在学中)に書くことが求められるレポートや論文は、常体で書くことが通常だからだ。学齢が上がっていくにつれて常体での文章執筆が当たり前になっていく。もちろん、ずっと敬体で書きなれてきた子が常体に切り替えるのがとても困難なことだというわけでもないのだが、それでも早いうちに慣れておくにこしたことはない。

学術的な文章では常体

しかし、なぜ小論文・論文やレポートは常体で書くのが一般的なのだろうか。たとえば文部科学省がルールとしてそう決めたとか、おそらくそんな明確な理由や事情が有るわけではないのだろう。単にそういう作法が自然と常識化したからといったことなのだろうと推測される。

ただ、こうした文書の執筆に常体を使うべきとする、人々の一般的な心理には、ここまで述べてきたことが少なからず関わっているのではないだろうか。それはつまり、常体という文体が、読者の存在に依存しない自立性をもった文体であるという事実だ。そのような文体だからこそ、学術的な文書のための文体としてふさわしいのではないだろうか。

「この私の思索や研究の報告は、それに耳を傾けてくれる者がいるかどうかによらず発信されるものである。私はかく考えた、そのことをここに、世におもねる心なく表明するのみである」―そんな意思の表れとして、学徒たちは常体で執筆するのではないか。

だから、とりわけ大学に入ろうと志望する学生達は、その態度にならうべきなのだ。つまり、大学入試で課される小論文については、堂々と常体を選ぶべきだということだ。そうして、誰が読者になろうとも揺り動かされない自分の自立的な思考を打ち出すのである。

志望理由書などは…

ただ、これは小論文執筆についての話であって、志望理由書や自己調査書などの提出書類に用いる文体は少し事情が異なる。これらのことについては多くの先生が「常体と敬体どちらでも構わない」と考えているのではないだろうか。私もそう考えているが、どちらかと言うと敬体の方が望ましいのではないかとも思っている。ただ、それは合否を左右するほどの「望ましさ」ではない。あくまで、これらの文書の性質を考えたときに、理屈上敬体が望ましいことになるのではないかという程度の話だ。

これらの文書で敬体が望ましいというのは、各学校のアドミッションオフィスのスタッフや、志望学部・学科の教員達といった、届けられるべき相手が明確に存在しているからである。そのメッセージが届けられる他者の存在が前提とされる文書なのだから、そこではそんな「読者たち」に敬意を払って敬体で執筆するというのが正しい筋になる。

ただし、繰り返すが、これはあくまで文書の性質を考えた場合の理屈の上での話であり、志望理由書などで常体と敬体のどちらを選ぶかは合否に関係が無いはずだ。たとえば、常体で書いていたのが、途中で敬体になっているだとか、そういう文法上の不備があれば減点対象になるだろうが、常体か敬体かの選択自体は採点の判断に関わらない。だから、常体で書いても何ら問題は無い。特に、敬体は常体よりも余計に字数がかかるから、字数制限内に収められるかが心配ならば常体を選ぶ方が良いだろう。

しかし、そういうことが無いならば、志望理由書などは敬体で書くことを私はおすすめしたい。試験として課される小論文は常体、事前に提出する文書としての志望理由書などは敬体と書き分けるのだ。これが、常体と敬体という文体それぞれの本質に誠実に即したやり方になると考えるからだ。あくまで、理屈上の話だけれども。

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さて、コラムを敬体で書くことに違和感をおぼえているという話から、こんな遠くまで来てしまった。このあたりで、文体をめぐる考察は切り上げよう。

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