「短歌きらいになった」
種に来てくれている小学生の中には、中学受験に向けて大手学習塾に通っている子も何人かいます。そういう子には、要望に応じて、塾のテストの振り返りをしてあげたり、そちらでの宿題が手に負えないようなときに手伝ってあげたりしています(「手伝う」といっても、もちろん安易に答えを教えるわけではなく、考える手がかりを示してあげたりするということですが)。
他塾さんの出す問題を見ていると、さすが中学受験志向の進学塾、と思える難問に出会うことも多くあります。
先日、短歌の批評文が素材になった問題を拝見したのですが、それを見せてくれた生徒がこんなことを言っていました。
「短歌きらいになった」
その文章が難しすぎて、全然手がつけられなかったようなのです。それで、短歌というものが近寄りがたい存在になってしまったのですね。
「読解問題」というものの罪
先に断っておくと、設問自体については良問だと私は思いました。考えるための手がかりや、着目すべき箇所を示唆する文言がきちんと書かれていて、それらさえ読み解けば、本文の内容を100パーセント理解できていなくとも答案を導くことができるようになっていました。
難しいというのは、題材の批評文の内容です。国語の問題の文章だということを離れ、テクストそのものとして考えれば、高校生の読む文章として丁度良いくらいなのではないかと思えるレベルでした。当然、小学校の教科書に載っている論説文・説明文のレベルからははるかに離れています。
もちろん、一般的な教養(高校生~大学生くらいに求められる程度の)をもっていて、詩歌などの文芸に関心のある人にとっては非常に面白く感じる内容であると思います。いくつかの短歌がとりあげられているのですが、それぞれについて読み込みを深くさせてくれる批評が展開されていて、私自身も興味深く読ませてもらいました。
とは言え、それを小学生に読み込ませようというのはやはり無茶な話。たとえ、短歌に造詣の深い子や、語彙や知識の卓越して豊富な子だったとしてもそうでしょう。だってこの文章は、他者論や死生学といった哲学的なエッセンスが織り込まれたものだったのですから。仮に語彙や知識が十分に備わっていて「日本語として何が書いてあるか」を理解できたとしても、根本的な思想の部分でついていけない子が大多数でしょう。
「人生経験を積んで老成した小学生」がいるなら話は別ですが、精神的な発達としてはごく普通の(もちろん、お勉強はよく出来るとしても)小学生たちが、自らの経験や思想を超越した晦渋な思想世界を読まされるのです。しかも、自分の意志とは関係なく。「短歌きらいになった」と言いたくなるのも無理がないでしょう。今回の一件で、世の読解問題というものの罪深さを感じました。
中学受験は「老成した小学生」を求めているのか?
ただ、いわゆる難関の中学校の国語入試問題には、児童向けではない一般新書からの抜粋など、明らかに小学生が自発的に読もうとするレベルのものではない文章が採用されていることが多々あります。それこそ、「老成した小学生」でないと十分には理解できまいと思われる内容のものです。
では、受験国語を解けるようになるためには「老成した小学生」を目指さなければならないのでしょうか。子どもたちを「老成した小学生」に育て上げることが、中学受験というプロセスにとって必須なのでしょうか。
必ずしもそうではない、というのがこの問いに対する私の見解ですが、ここではひとまずそれを記しておくだけにして、詳しくはまたどこか別の機会に語れればと思います。
(山分大史)