はじめての共通テスト

初めての大学入学共通テスト第一日程が終了しました。その実質的内容はどうであったにしても、大学入試の歴史、あるいは日本の教育の歴史に刻まれる記念すべきテストであったと言えましょう。

今回のテスト問題の中で、特に第1問の評論文を対象にして、私の思ったことを書いてみたいと思います。

これはあくまでテスト問題に対する「感想文」になりますので、各設問の答えを導く考え方の解説はしません。今回のテストを(大学入学希望者の学力を測るという)特定の目的のもとに用意された一つの独立したテクスト、あるいは一つの「作品」として受容し、その批評をしていくということをやりたいわけです。そのため、第2日程を受験予定の方や、来年以降大学受験を迎える学生の方がご覧になっても、何の役に立たないと思います。

なお、問題文や設問文を引用することは控えますし、その内容の説明は必要最低限にとどめ、ます。そのためテスト問題そのものをご覧になっていない方には上手く伝わらない内容になってしまうかもしれません。その点はおゆるしいただければ幸いです。

第1問 評論文 香川雅信『江戸の妖怪革命』

初の大学入学共通テストということで、注目されているのはやはり、センター試験と比べてどれほど変わったかということだろう。それについてまず結論を言えば、国語科のテスト全体を通じて実質的に新しくなっている要素は少ない。

第1問では、問5が形式的に新傾向のように見える。この設問では、本文の内容理解のために「Nさん」という架空の学生が用意した3つのノートに空欄が用意されており、それぞれを埋める表現を回答するというもので、その3つのノートに応じて(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)という三つの小問が用意されている。

こうした架空の生徒を想定するタイプの出題は一面では新しいものと言える。ただし、この種のものは近年のセンター試験でも(共通テストへの助走のような形で)すでに出されていたし、3~4年前に実施された共通テスト試行問題や、各種の予想問題をこなしてきた多くの受験生にとっては見慣れたものでもあるだろう。そのため、こうした出題形式自体は実質的に新しいものとは言えない。

また、その出題内容においても従来問われていたものを踏襲した部分が大いにある。たとえば(ⅰ)は結局のところ段落構成を問う小問で、センター試験時代から第1問(評論文)ではおなじみのものである。姿かたちは異なれど、とるべき思考過程はまったく変わらないのである。

とはいえ、新しさを感じられたものが全くなかったかと言えばそうではない。小問(ⅲ)がそれである。これは、「Nさん」がノート3に記した内容を考えさせる問題になっている。このノートで「Nさん」は芥川龍之介の作品「歯車」の一節を引用し、問題本文(『江戸の妖怪革命』)で述べられていた議論を援用しながら、その作品解釈をする。受験者はこの「歯車」解釈に設けられた空欄に入るにふさわしい文言を選択するのである。

この問題の特殊性は、文学鑑賞の領域に入っていることにある。従来のセンター試験では、大問ごとに分野が峻別されており、基本的に第1問が評論文からの出題、第2問が文学的文章(小説)からの出題である(また、第3問が古文、第4問が漢文)。今回の共通テストではその基本構成自体は変わっておらず、やはり第1問は評論文であったわけだが、その中に文学的文章に関わる設問があったのである。

今回の第2問も従来を踏襲して文学的文章の出題だったのだから、そちらと重複している感はあり、その意義に疑問が残るところもあるが、このような分野の枠を破った出題がなされたことは画期的である。もちろん、一つの文章のみを出題対象とするのではなく、複数の文章や資料を題材にするということは新テスト構想時点からアナウンスされてきたことであるし、実際試行問題でもその通りに複数の文章や資料から構成される出題がなされた。しかしながら、そこでは、たとえば著作権に関わる内容が論じられているメインの評論文に対して、著作権法の抜粋や、著作物の定義を整理する表が添えられているなど、文学作品の読解に及ぶような形を予想させ得るものではなかった。

このような分野をまたがる形の出題がなされたことが今後大学受験を迎える学生たちにとってどのようなメッセージとなるかはさておき、この新しい問題構成の妙趣について一言しておきたい。

それは、最終問題であるこの(ⅲ)にたどり着きその正解を検討することが、一つの学びかたちを提示してくれるということである。受験者は「Nさん」の身を通じ、本文にて筆者が論じていることを援用しながら芥川の「歯車」を解釈することを試みるわけだが、そうすることによって、近代になって頭をもたげるようになった人間的課題-不安定で不気味なものとしての「私」の内面という-を文学作品が象徴的な手法によって描きだそうとしていたことに気付ける。そして、文学という営為がそうした人間の精神が抱える普遍的課題と闘うものであること、またその闘争が人々の認識の拡張、あるいは倫理的精神の充足や慰めとなり得ることを、受験者は断片的な形ではあれ感じ取ることができるのである。あるいは、少なくともその契機を提供しうる出題になっていると言えるだろう。

一つの文章のみを題材にして、その内容理解を確認するにとどまる従来のセンター試験では、このような可能性を持つ問題を用意するのは難しかっただろう。メインの文章と、それについて眺めた「Nさん」のノートというメタ的な立場にある資料の両者が素材となっていることによって、このような複合的な文章読解の体験が可能な問題が実現できているのである。

しかしながら、そのような魅力的なポテンシャルをもつ出題だからこそ、全体的な問題の分量の多さが惜しまれる。センター試験時代から毎年分量はかなり多く、本文や選択肢の文言をじっくり読んでいる余裕があるテストではなかった。そしてその傾向は共通テストになっても(試行テストのときからも)変わっていない。むしろ、共通テストでは複数の文章や資料が素材となった分、読みとらなければならない情報量は、たとえメインの本文が短くなっているとは言え、増えていると感じるのが多くの受験者の体感なのではないだろうか。

このような短時間で情報処理をこなさなければならない状況の中では、せっかくテクストの読みを総合的に広げてくれるような良問が用意されていても、その真価が十分に発揮されない。設問が提供しうる読解体験をじっくりと味わうことができぬまま、受験生はただ浅い速読を強いられるのである。これはかなりもったいないことであると思う。

もちろん、今回が共通テスト元年であり、センター試験からのあまりに大きすぎる傾向変更は難しかったということもあるだろう。だからこそ、先述のとおり実質的には従来踏襲に留まる問題が多く設けられていたという事情があるはずだ。そのことは現時点では仕方がないことであるが、今後年度を経ていくにつれ今回の問5(ⅲ)のような読みの可能性の拡張を問い得る設問の割合が増え、またそうした良問が生きるよう分量調整がなされていくことを期待したい。

(山分大史)

2021年01月19日 | Posted in コラム | タグ: , , , , No Comments » 

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